これからご実家をしまわれる方へ
- 便利屋 あなたかわりに「なんなりと」
- 2024年9月1日
- 読了時間: 32分

こんにちは。便利屋なんなりと代表の西窪ゆりかです。
ここでは2度の実家じまいをした私の体験談から学んだことや失敗談、当時の心境などをお話させていただきます。
これからご実家をしまわなければならない方へ、おこがましいですが少しでもお役に立てれば…
そんな思いを込めまして、自身の経験から得た気づき、失敗して学んだことやその時の心情、様々な出来事などをシェアできればと思います。
もうすぐご実家をしまわなければならない方
まだまだ先のことかもしれないけれどひょっとしたらそうなるかもしれない方
『実家をしまわなければならないけれど今はちょっと…』と迷われている方
置かれた立場や境遇は人それぞれですので共感できる部分、そうでない部分あるかと思います。
自分が生まれ育った家、かつては家族が集った思い出の家。親の家。
そんな実家をしまうということは単なる自分の引っ越しなどとは全く違うものでした。
費用や時間を費やすのはもちろんのこと、心身ともにとてつもなく膨大なエネルギーを要することだったのです。
中には今ならもっと上手くできるだろうにとか、ほかの方法でやればよかったなと思えるような事柄もあると思いますが、
どうか拙い文章と共に少しなりとも参考にして頂きまた、反面教師にして頂ければ幸いです。
◆目次◆ 私が実家じまいに至るまで
『実家じまいの時はじわじわとやってくる』
1968年生まれの私はひとりっ子で岐阜県で生まれ育ちました。進学のため18歳で家を出て奈良県へ、そしてそのまま奈良県で結婚をして現在に至ります。実家には母がひとり、子供たちが小さい頃は実家の母もまだまだ元気でしたので家族で帰省しては皆で楽しい時間を過ごしたものです。4人の子供たちもおばあちゃんの家が大好きでしたし、実家から少し足をのばせば素敵な名所や温泉、自然を堪能できる場所も沢山ありましたので帰省するのが楽しみでもありました。しかし年に数回は必ず帰省していた実家ですが、子供たちの成長と共に学校や部活などの関係でなかなか帰省もままならなくなります。そんな中2007年夏、母の病気を切っ掛けに母を岐阜から奈良へ呼び寄せることになりました。母は奈良県の病院で入院、手術をし退院後は我が家にほど近い場所に母の家を用意し住んでもらうことにしました。今から思えば思い切った決断だったと思いますが、高齢の母親を独り遠くの実家に残しておくわけにはいきませんでした。そうすることが当時最善の決断だったのです。そんな訳で突然母は奈良で暮らすことになったのでした。岐阜の実家は母を慌てて奈良に連れ帰ったあの日のままでした。季節はもう夏から初秋へと移っていました。
『遠い実家のことを自分の生活ペースに組み込む難しさ』
何とか無事に母を奈良での住処へと迎え入れることができ、体調も日に日に日常生活に対応できるほどなりました。孫たちもすぐそばに居るので母も何かと励みになったようです。母を奈良へ連れてきた当初は後から岐阜の実家へ物を取りに行けばいいなどと安易に思っていましたが日常生活があまりにも忙しすぎて中々岐阜へ行くことができません。その当時、私の子供たちは高2、中3、小6、小4。仕事や学校の役員活動などをしていましたし、おまけに同居している主人の両親も体調を悪くしていた時期でもあったため毎日が目の回るような忙しさだったことを覚えています。たまに時間を作って車で岐阜まで荷物を取りに行ってはいましたが、とはいえ往復だけで6時間弱、実家に行くのは一日仕事でした。そして母をこちらに連れてきてしまった状況下において岐阜の実家は尚更遠く感じました。一方、母は母で少し体の調子が良くなるにつれ岐阜の我が家への思いがつのるばかりです。『早く岐阜へ連れて帰って、仏壇も心配だしお父ちゃんのお墓にも参りたい…』そんな母の切なる願いにもすぐに応えることができずとても心苦しかったものです。その後、主人や息子たちの協力で仏壇と少しの家財道具などをワゴン車で取りに行くことができました。子供たちの行事や家の事、仕事の合間をぬってまる一日をつくるというのが当時本当に大変なことでした。
『物で溢れていた実家は母の城だった』
私の実家は母しか住んでいなかったのですが部屋数は8部屋と納戸、結構な広さがありました。ものを買うのが大好きだった母はとてつもない『もの持ち』でもありました。母曰く、『私は戦時中ものが無かったから苦労したんよ。だから物を大切にしとるんや。苦労を知らんあんたたちにはわからんやろ!』そんなことを言ってはまた一つ、また一つと私が帰省するたびに物が増えていたのを覚えています。母が物を増やすもう一つの原因はしまい込んで忘れてまた買うといった循環でした。本人は必要性を感じてとにかくどんどん買うのですが同じものが沢山ありました。無駄に広い家はものでギッシリ、まるで大家族が住んでいるかのようなボリュームでした。ただ、そんな母の暮らしでしたが、長年独りで暮らす寂しさをもので満たしていたのかもしれないとも思うのです。母を独りにして家を出た私はそんな母を責めることはできないのです。
『高齢の母をもう独りにはできない』
子供たちの成長と共に日常生活は更に多忙となりました。結果、岐阜の実家へはたまにしか荷物を取りに行けない状態で結局は必要なものを奈良で購入するというパターンです。そしてこちらで物が揃っていく為、特に生活するのに不自由もなくなり余計に実家から足が遠のくという循環です。一方、母は岐阜から離れて暮らせば暮らすほど住み慣れた我が家への思いは大きく大きく膨らみます。『早く岐阜へ連れて帰ってほしい』と何度何度も懇願されました。無理もありません、突然自分の意志とは関係なく奈良に連れて来られて『今日からここで住むように』と言われた母の気持ちを思うといくら実の娘やかわいい孫たちが近くにいるからといえども酷な話です。慣れ親しんだ土地、古い付き合いのお友達。そして何より大好きな我が家との別れ。母の気持ちは本当に痛いほどわかっていましたが、もう足も悪くなってきた高齢の母を岐阜で独り暮らしをさせることはできませんでした。奈良と岐阜では何かあった時にすぐに飛んでいける距離ではありませんでしたし、ましてや『何かあったこと』を誰かに知らせることができればよいのですが、それもできない状態だった場合のことを考えるととても独りにすることはできませんでした。母の気持ちを考えると本当に心苦しく苦渋の決断でした。あの頃の私は母の顔を見るたび罪悪感を抱きつつ生活を送っていました。
『空き家を『現状維持』することはできない』
当時私は日常の忙しさにかこつけて実家のことは『現状維持』だと自分に言い聞かせていました。折に触れ2~3か月に一度、はたまたそれ以上開くこともありましたが日帰りで墓参りを兼ねて母を岐阜に連れて行きました。実家へ帰るたび先ずは窓を開け放ち庭の草刈りをします。隣の敷地に草が入り込んでしまわないよう念入りに刈るのですがそんな俄かな自分の行いなんて微力なもので、大概はお隣さんがうちの敷地まである程度草を刈りこんで下さっていました。ご近所の方にはいつも本当にお世話になっていました。こうして数か月に一度、数時間しか空気を通さない家は傷んでくるものですし家財道具も劣化していってるような感じが否めませんでした。『現状維持』とはいうものの『現状維持』とは毎日手をかけてはじめて現状が維持できるものだと深く考えさせられました。私の思っていた『現状維持』では『現状を維持することなどできない』のです、そして確実に『劣化していってる状態』なのです。そんな中、更に追い打ちをかける出来事がありました。寒い冬のある日のことです。岐阜の実家のご近所の方から『寒波で実家の敷地内で水道管が破裂した』という連絡がありました。水道の元栓は万が一のことを考えて閉めていたのですが、どうやら引き込み側の配管が破裂したらしいのです。駐車場が水浸しになっているのに気が付いた近隣の方が水道工事業者さんを呼んで対処してくださったとのこと。本来ならすぐに駆け付けなければならないところですが急なことでそれもできず本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。当たり前のことですが年数が経てば確実に劣化するわけで、住む人がいなければその異変にも対応できないわけです。その時は水道のことでしたが、これが火事や空き巣ならどうでしょう。きっと近隣の方をもっと不安にさせてしまうでしょうし多大なる迷惑を掛けてしまうかもしれません。空き家を放置しているということはそういうことなのです。
『急にタイムリミットが来る』
慌ただしい日々がしばらく続いていましたが、2012年、私の実家じまいのタイムリミットが急に訪れました。同居している義父が脳出血で倒れ入院し、退院後には介護が必要になってしまったのです。半身不随になってしまった義父は車いすの生活で何をするのも介助が必要な状態です。義父の退院を1か月後に控えたある日、自ずと私は決心がつきました。。『もうズルズルと実家を放置しておくわけにはいかない。義父の介護が始まったら実家を見に行くことすらできなくなるのだ!この機会にもう実家をしまおう。』必要に迫られる形でやっと自分の中で期限を切った瞬間でした。もうアレコレ考えている暇などありません、どうしたって今『実家』を手放さないといけないのです。義父の介護が始まれば今度こそ実家に何かあってもどうすることもできません。タイムリミットはちょうど1か月でした。1ヶ月後には義父が退院し介護生活が始まります。
『実家じまいを突然始めた理由とひっ迫したタイムリミット』
前半でも書いているように私の実家じまいは突然始まりました。ざっくり振り返ってみますと主人の父親が倒れ自宅での介護が必要になってしまったため今後私の実家を管理し続けることも難しいどころか今実家を何とかしておかないとこの先実家をしまうタイミングがないのではないかという状況に追い込まれたのでした。これは”私も主人もひとりっ子同士”ということも大きく関係しています。ほかに頼れる兄弟などがいないため自分たちの親のことは自分たちで考えていかなければならないということです。自分の実家をしまうのも義父を看るのも…ということです。脳内出血で倒れ入院リハビリ中だった義父が退院まであと1ヶ月というタイミングで私は実家をしまうことを決断しました。あの膨大な量の荷物を処分して実家を手放すということを完結できるのは今しかないのだとこの期間を逃したらもう頻繁に奈良から岐阜へ行くことは難しいだろうと判断したのです。そう思ったらもう一刻も早くやらなければという衝動にかられました。自分一人であの膨大な”プロジェクト”を遂行するために1ヶ月はとても短い期間だと思えました。そして次の日には岐阜の実家へ向けて朝早くから出発したのでした。実家をしまう理由はそこに住む人(主に親)が何らかの理由でそこで生活することができなくなったという事です。具体的には親が高齢になって自宅で生活できなくなったり、亡くなったりということです。そして家を受け継ぐ人(子)にとっては自分の生活ペースの中にそのこと(実家の管理)を組み込まなければならないということです。その時どんなに仕事が忙しくても、どれだけ子育てに追われていても、実家から遠い場所で暮らしていたとしても…。現実問題、住人不在のその家をずっと空き家のまま放置しておくことは望ましくありません。そして私のようにきょうだいがいない場合はほぼ自分ひとりで背負うことになります。人それぞれ境遇は違うと思いますので一概には言えませんが、自分が生まれ育った大切な家であっても、現在の生活ペースの中に実家のことを組み込むということは時と場合によってはとても大変な負担になることがあります。なるべく最善を尽くせるようにと願って生きるのが理想ですが、それが中々難しいということもあるのだということを切実に思い知らされる一連の出来事でした。そして私の実家じまいの最初の行動は『先ずはとにかく実家に行って現実を見る』ということでした。現実を見るのと同時に頭で考えていた数倍、いいえ数百倍にも思えるような課題を目の当たりにすることになるのでした。
『時間がかかることなのに時間がないという辛さ』
さて、義父の退院までのちょうど1ヶ月で実家をしまうと決断し、いざ奈良から岐阜の実家へ(可能な日は)ほぼ毎日通うこととなるのですがこれがまた大変なものでした。仕事こそ自営業のだったため融通をつけることができましたが当時育ちざかりの4人の子供たちや『要支援』の義母も抱えていましたのでなかなかのハードワークとなりました。そして何といっても往復だけでも5~6時間はかかります。実家で作業できる時間は自ずと限られることになり、6時間、多くて7時間が限度、何と効率の悪いことか!本音を言えば泊まり込んで作業をしたいとどれほど思ったことかわかりません。…しかしながらもうジタバタしてもどうしようもありません。今回だけは費用をかけてでも実家をしまうことが先決です。最悪、実家を売却して相殺するしかないと割り切ることにしました。ちなみに、私の実家周辺の土地の相場は当時本当に安くてそれに加え古い上物(うわもの)があるため逆に売却しにくいという状態でした。それでも自分の手に余る気がかりな実家をこの機会にスッキリと手放すほうがメリットは大きいと考えました。
『いざ、実家じまいスタート!最初のとてつもなく大きな壁は自分の気持ちだった』
1か月以内に実家じまいをすると決めていざ実家へと行ったわけですが、改めて『もの』の多さを前に呆然としました。
何十年も前、私が小さな頃いやそれ以前からあるだろう懐かしい数々のもの。
私が家を出てから母が購入し続けた数々のもの。
母に聞けばおそらく『全部大事なものやから残しといて!』と言うでしょう。
広い家に所狭しと蓄えられている気の遠くなるような物、もの、モノ…。
いったい何処から手をつければ良いのか思考回路がおかしくなりそうな状態でしたが、とりあえず要るもの要らないものを仕分けし、処分するものは直接市町村のゴミセンターへ持ち込みしようと作業に臨みました。
…とはいうものの仕分けするだけでもどんどん時間は過ぎていきます、焦る気持ちとは裏腹に手が止まり考え事ばかり。このままでは全く埒(らち)が明かない、片付く気が全然しない、こんな調子では1ヶ月はおろか1年経っても片付く筈がないと思えました。
本来ならここにあるものはもう数年間手をつけてなくて殆どが必要の無いものなのです。
今、奈良で暮らす母も忘れているものばかり、それが無くても何不自由なく暮らしは成り立っているのです。
それなのに…わかっているのに…色んな思いが入り混じり作業が全く捗らないのです。
これほど苦痛なことは無い、中々割り切れない…ひとり作業をしながらそんな自分と闘っていました。
処分しないと前には進めない、なのにいちいち心を痛めて処分できない。
きっとこれは『断捨離あるある』なのてしょうか。
大きな壁が立ちはだかっているような気がして今にも心が折れそうでした。
とはいえ、そんな重い気持ちでもとにかく手を動かし続けなければ永遠に終わらないと自分自身に言い聞かせひとり黙々と作業を進めていきました。
今ならわかりますが私の前に立ちはだかっていた大きな壁の正体はもう1人の自分自身の弱音を吐く心だったのです。
『最初の最初に少し時間をかけてやったこと』
実家じまいをするに当たり、私が最初(初日)にやった事をざっと記載してみます。
奈良から岐阜へ向かう道中、いつも作業内容を考えながら車を運転していました。
長い往復時間でしたがこの時間が唯一、自分と向き合える時間でもありました。
先ほども少し触れていますが、初日に大量のゴミ袋や軍手などをホームセンターで購入したりダンボール箱を大量に持って実家に向かいました。作業が始まると途中でゴミ袋が足りなくなったり必要なものが無いとまた買いに走らなければなりません。途中で手を止めて必要なものを調達しに走り回ると言うのは作業を始めてしまうととても煩わしいものです。ですので時間を有効に使うためにも最初に時間をかけて必要なものを揃えておく方が良いかと思います。
また実家に到着してから先ずは近所の方々に挨拶をしに行きました。
皆さん私が小さい頃から知っているご近所さんでしたので、懐かしい話や母や私の近況など話が弾みだすと止まらない感じでした。
あっさり切り上げるわけにも行かず、ここはこれからスムーズに作業を進めるためにも丁寧に対応しました。
『立つ鳥跡を濁さず』と言いますが、この実家じまいを持ってお世話になったご近所の方々そしてこの地ともお別れです。
気持ちよくお別れできるよう最後まで丁寧にものごとを進める必要があると思いました。
『実家を売却する書類上の複雑さ』
不動産屋に相談をしたのも初めの頃です。
こちらの今の状態を知ってもらい、片付け終わって直ぐスムーズに鍵を預かって貰えるよう時間的余裕を持って相談したかったからです。
私はてっきり何の問題もなく売却出来ると思い込んでいました。
しかしそれは大きな思い込み違いという事を不動産屋さんとの面談の際に知ることとなりました。
私は勢いだけで『実家じまい』をしようと突っ走っていた為、家の中の物を処分することばかり考えており、不動産売却に関しては私の思いの及ばない点が多々ありました。
ですので(後から思えば当然なのですが)売却以前にしておかなければならない事や抜けが発覚した為、早めに相談しておいて良かったと思いました。
具体的に挙げますとそのひとつが図面と登記簿の不一致です。
私の実家は3回ほど増築している為要不要に関わらず沢山の書類が保管してありました。
当時の経緯が定かでは無いので何とも言えませんが、こうして売却などの折に発覚すると困ったものです。
もう一つは名義の問題です。
今回は[母名義の家を母に代わって私が売却する。母名義の家だが母の現住所は奈良に変更している]という複雑な状態での売却をしようとしています。
ですので所定の手続きを踏んでからしか実行出来ないという事です。
もし母が認知症にでもなっていればまた一段とハードルは上がったと思います。
奈良で暮らしている母は身体を壊し入院しているものの診断の結果認知症と断定までは至っておらず(ハッキリとした線引きは出来ませんがグレーゾーンではあったと思います)、
後に司法書士さんに奈良へ来て頂き母と面談してもらい母への意思確認や法規上の書類などの作成をして頂きました。
たまたま飛び込んだ不動産屋さんではありましたが、良心的で親身になって頂けたことも助かりました。
不動産売却時の状況というのは様々なケースがあるだろうと思います。
特に実家に関しては親の(そのまた親の場合も…)ものだという事もあり状況がわからない場合やそもそもの書類が紛失されていたりということもあり得ます。
実家をしまうしまわないに限らず書類上のことは時間に余裕のある時にきちんと調べておいた方が良いと思いますし、親が元気なうちに確認をしておくほうが良いと思います。
…とはいえ、親が元気なうちは中々難しいのですが。
『やらなきゃよかった、手を付けなきゃよかった…という変な気持ちが湧いてくる』
いわゆる『もの持ち』の母は捨てずに買うばかり。物が捨てられない。
『勿体ない精神』という言葉を盾にものを貯めるばかり。物の上に物を置く。あるのに買う。
物のために収納場所を増やす。
物で溢れた私の実家はどこから手を付けてよいのかわからない状態でした。
母にとっては全てが必要なものという認識なのでしょう。
(しかしながら実はそれらの殆どは本当は母も忘れているのです)
最初は当たり障りのないものから処分していこうと結構丁寧に仕分けをしていました。
そして一つ一つものを手にするたびに母の気持ちに想いを馳せていました。
母はどんな想いでこの家でこれらの物と共に暮らしていたのだろうと。
きっとひとりで寂しかったんだろう、それを救ってくれた、独り暮らしの母を支えてくれたのもきっとこれらの『もの』たちなんだろうと。
しかしそのうち『こんなに丁寧に片付けていたら終わらないぞ』と別の心の声が聞こえてきます。
1日が終わるころ、進捗状況を見てみると、とても1か月後にキレイサッパリ終わっているとは到底思えない状態でした。
そんなわけで1日目は心身共にとても疲れてしまいました。
母親とはいえ、自分以外の人の所有物を整理する(主に処分する)のはとてもエネルギーのいることです。
そして何よりも先が見えない、明るい予想ができないことで疲労困憊になりました。
今から奈良へ帰って、そして明日また早起きして家の事を済ませて車を飛ばしてここへ来る…。
考えただけでもどっと体に重しが乗っかってくるような気持ちでした。
そして思ったこと。
『やらなきゃよかった、手を付けなきゃよかった…』
初日早々、どうしようもない気持ちが沸々と湧いてきたのでした。
『何とか気持ちを奮い立たせる』
それでも明日はやってきました。
不動産屋にも声を掛けてあるし、ご近所さんにも『実家をしまうので…』と挨拶をして回った手前、
何としてもやらなければならないと思いました。
それに一晩寝たら少し気力も体力も復活していました。
しかしイザ片付け作業に入ると最初こそちゃんと仕分けして市のゴミ袋に詰めていたのですが、それでは話になりません。
膨大な量の物はそこから動かすだけでも時間が掛かります。
もう吟味している暇など無いのだと感じましたし、実際に仕分けに困るようなものばかりなことは一目瞭然でした。
それでもできる限り仕分けて大量になってくると車に積み込んで市のクリーンセンターにせっせと運びこみました。
もう何往復したのかわからないほどです。
とはいえ、膨大な量のものを箱の中や引き出しの中、そして何でできているかわからないものや得体のしれないもの。
そんなものをいちいち仕訳けて自治体の指定袋の中に入れていく作業はとても効率が悪く先の見えない作業でした。
8部屋と台所、押し入れ、納戸、物置、そして敷地内に置かれた大量の物…。
とても奈良から通いで整理できるものではありません。
手は動かせど、思考が止まる。
しんどくなって手も止まる…。
そして重圧に耐えきれなくなり、しまいには泣けてくるのでした。
そんなこんなで数日奈良から岐阜に通いましたが疲労が溜まり1日休息を取ることにしました。
とはいえ、頭の中は実家の片づけをどうするかという事ばかり。
今思い出そうとしてもその頃の奈良の自分の家での記憶が殆どありません(笑)
しかしながらその貴重な一日に、のちの作業を劇的に捗らせる方法を仕込むことが出来ました!
ちょっと大袈裟な表現になってしまいましたが…。
実家の大量なものを一つ一つ仕訳けて袋に入れてクリーンセンターに運ぶ、確かに時間があればそれは有効なことだし、正しい処分の仕方だと思います。それは時間があればのことです。
もうひと月を切っているその時、もうそれは有効な策ではありませんでした。
そこで思いついたのは【産廃処理用コンテナを設置しその中に躊躇せず放り込む】という事です。
そのアイデア(?!)はその直前まで建築現場で働いていた経験から思いついたことです。
(私は実家を片付ける直前までガス配管工の夫と一緒に現場で仕事をしていました)
建築現場には産建廃材を捨てる産廃用コンテナが必ず設置してあり現場で出た廃材はそこに廃棄します。
廃棄するものやコンテナのサイズによって値段が変わってきます。
混合(色んなものを入れる)コンテナは値段も高いのですが、この時ほど『お金にものを言わそう、お金で時間を買おう』と思ったことはありません。
家が売れたらもうトントン(利益なし)でも良いから何とかせねば…という究極の思考です。
そんなわけで実家に行くのを休んだその日、奈良から岐阜の実家近くの産廃業者さんをネットでいくつか探して直接電話で交渉し、
その日のうちに産廃用コンテナを実家の駐車スペースに設置して貰いました。
ちなみに一般家庭の主婦からの依頼に産廃業者さんは大変驚かれていました。
私はただただ明日から少しでもスムーズに作業が捗れば…という藁にもすがる思いでのことでした。
『劇的!コンテナ様!』
産廃用コンテナを設置してからは劇的に作業が捗りました。
仕分けせず躊躇なくコンテナへ投入していきます。
仕分けの時間も、袋に入る大きさを調節したりする時間も、アレコレ考え悩む時間も…すべてが大幅に短縮出来ました。
ちなみにコンテナサイズは4㎥。
(1m×1m×1mの箱のサイズが1㎥ですのでその4倍の大きさです)
全て家庭ゴミで色々な物を捨てるという前提で産廃業者さんにお願いしました。
残念ながらはっきりした金額は覚えてないのですが2012年当時、満タンに詰めて3万円~4万円だったと思います。
時間的に余裕が無かったので金額に糸目はつけませんでした。
分別して自治体のゴミで処理すれば費用は安くなっていたかもしれません。
しかしタイムリミットが迫っていた自分にとっては正にお金で時間と労力を買ったのです。
…都合の良い言い方をしてしまいました(苦笑)。
とにかく当時の心境は『家が売れたら相殺できるからとにかく今を乗り切ろう!』とただそれだけでした。
『まだまだ出てくる大量のモノ…また心が折れる、そしてまた立ち上がる』
しかしながら膨大な量の物は一筋縄ではいきません。
コンテナを導入し作業性は良くなったたにもかかわらず圧倒的な物の多さであっという間にコンテナは満タンになってしまいました。
1回目のコンテナは何とその日の作業だけで満タン。
そんなことではこの家を空っぽにするには一体何個のコンテナが必要なの?
一体いくらかかるの?
そもそも本当に終わるの??
ひとりの孤独な作業はすぐに心が折れてしまいます。
そんな心が折れ掛かってきたとき、何故だかいいタイミングでご近所さんが差し入れを持ってきてくれたりしました。
温かく優しい思いやりに本当に何度も何度も助けられました。
心が折れそうなことが幾度となく襲ってきました。
でも、それでも、
また頑張ろうと奮起することが出来ました!
所で、折角設置したコンテナ。
あっという間に満タンになるのは私の詰め方が悪くてスペースが非効率になっているという事もあったからです。
むやみに投入するのではなくコンテナの中を整理整頓、パズルのように隙間を無くして詰めていくという事が必要でした。
1回目のコンテナ設置で調子に乗ってバンバン放り込んでいた私ですが実はコンテナはいかに上手く詰め込むかがミソです。
何も考えずに放り込んでもスカスカだとコンテナ代も馬鹿になりません。
2回目以降の設置からはそんなことも考えながらとにかく頑張りました。
最終的にコンテナ設置は4回ほどお願いしました。
残念ながら正確な数字を覚えてないのですが金額にして13~14万円ほどかかったように記憶しています。
『どんどん出てくる色んなもの』
ここでざっと実際に処分に困ったものや手のかかったものなど一部を振り返ってみます。
もしかしたら実家の片付けあるあるかもしれません。
台所からは大きな瓶に入った『〇〇の××漬け』みたいなシロップに漬けた『何か』が沢山出てきました。
容器の中の液体は黒く濁ったり、茶色く濁ったところに浮遊物がいっぱいだったり…。
瓶を振ると元々が何なのかわからない実がまるでマリモのようにゆっくりと揺れます。
おそらく漬けたその時は身体によさそうだとかその時のマイブームみたいなものがあってやる気満々で漬けたものでしょう。
しかしながら独り暮らしの母が処理しきれるような量ではないし、娘の私から言わせてもらうと
母が『〇〇漬け』というようなものを飲んだり食べたりしているイメージは殆どありません。
何年前の科わからない瓶容器に入った液体と中に入っている謎の『果実』。
それは何個も何個も大量に出てきました。
中身を出して処分しないと液体のままゴミとして出せないため固い蓋を力ずくで開けては息を止めて中身を出しました。
古い写真や故人の形見と思われるものも沢山出てきました。
恐らくは母も忘れていたと思いますが、いざ処分となると思い切って判断をすることがとても心苦しく、いろんな意味で疲弊しました。
母の両親の写真や、両親が持っていた写真を母が引き継いだもの、特に昔の人は写真を大切にしていたのでどうするか迷いました。
大量の古いアルバムには私の知らない若かりし頃の祖父母や親類、そして父母など、私自身も手を止めて見入ってしまうものでもありました。
それらは私の独断で数冊だけを残して目を瞑って処分しました。
仕方がありません。
もしかしたら母はもう二度と見ることもないのかもしれない、思い出すこともないものだったのかもしれませんが。
来客用の布団類も沢山出てきました。
母が私たち家族が子供たちを連れて泊まりに来た時用にと買っていたものです。
しかも家族の人数以上の山のような布団、ざっと10人は寝泊りできる量です。
母はいつでも私たち家族が来てくれるのを待っていてくれたのです。
これだけ揃えていてくれた母の想いを感じるものでした。
布団は持ち帰れるものは奈良へ持ち帰り、新品に近いものは近所の施設に引き取って貰うことが出来ました。
コンテナに入れるとスペースを取ってしまう巨大な食器棚や母の嫁入り道具の箪笥類は市のゴミセンターに持ち込み処分しました。
力持ちの息子に会社が休みの日に来てもらい2階から何棹も箪笥を降ろすのを手伝って貰いました。
昔の人は婚礼家具をもって嫁入りしたので揃いの家具箪笥(それも大きなもの)が何棹もあったのでした。
当時中3の娘が夏休みの部活の合間をぬって何度か手伝いに来てくれました。
殆どの家具は私ひとりでは動かせないものばかりでしたがお陰で本当に助かりました。
中でもトラックのレンタカーを借りてきて娘と二人して大きな冷蔵庫を必死になって積んだことは忘れられません。
冷蔵庫は母がずっとお世話になっていた小さな街の電気屋さんに持って行って処分をお願いしました。
余談ですが、この『街の電気屋さん』の存在は今の私にとても影響を与えて貰いました。
その話はいずれまた書きたいと思います。
外周りにも沢山の物が置いてあり結構な時間を要しました。
外から容易に動物などが出入りできるような物置の中の物を出すときは本当に怖かったです。
『何か』出てきたらどうしようという恐怖で足がすくみました。
私にとっての恐怖の『何か』とは、蛇や害獣などのことです。
死骸であっても嫌ですし、生きていたら…なんて思っただけで身体が震えました。
幸いその場所からは何も出て来ず本当に安堵しましたが、後に家の中を片付けているときにコウモリの死骸が2匹出てきました。
また、どこの家でもよく見る光景ですが、家の軒先や駐車場の後ろの方などに古いタイヤが置いてあるのです。
うちの実家もそうでした。
タイヤはタイヤとして処分しなくてはなりません。
つまりタイヤショップなどに料金を払って引き取って貰わないといけませんので車屋さんに持って行って処分をお願いしました。
色んない意味で処分に困ったものもあります。
『人形』『神棚』『仏様の絵の掛け軸』などです。
(うちの実家は何故か仏壇も神棚もありました)
仏壇は奈良へ持っていきましたが神棚は近くの神社にお願いしてお焚き上げをして頂きました。
人形と仏様の掛け軸は人形供養をしてくれるところを探し供養をして頂きました。
一方、高価と思われるものも意を決して処分していきました。
私がどんどんコンテナに入れているとご近所さんも見かねて『勿体ないから引き取らせて』と声を掛けてくださったこともありました。
それを切っ掛けに私もご近所さんに積極的に声を掛けさせて頂き引き取って貰えるものはどんどんお願いしました。
少しでも処分するものを減らせることは何よりありがたいことでした。
結局私の実家じまいは義父の退院する前日に終えることが出来ました。
本当にギリギリです、息つく暇もなかったです。
前日まで岐阜へ毎日のように通い、ひたすら片づけをしていたのに翌日から約2年間は殆ど自宅にて義父の介護に費やしました。
母は実家じまいから4年後に旅立ちました。
4年間、一度も家のことは口にしませんでした、ただただ毎日を、その瞬間を、その時の感情で生ききりました。
◆最後に『実感と反省』
今回のこの事例は整理の位置づけとするなら母が存命中のことでしたので遺品整理ではなく生前整理なのかとも考えられますが、しかしながら母の意思でしたことでも母の手で実施したことでもありません。言葉にや呼称にこだわり始めると様々な議論になるかと思いますが、ここではあくまで私(子供)の立場から『実家じまい』とさせていただきました。ただ、呼び方に重きを置くのではなく、それぞれの立場の人がそれぞれの事情で『そうすること、それ自体の一つ一つ』こそが大切な事象なのだと感じます。
ちょうど一ヶ月というタイムリミットの中、必要に迫られてやることになった実家じまい。私はひとり娘(ひとりっ子)という事もあり相談できる兄弟姉妹もおらず、また、現在のようにネットから沢山の情報を得るという思考回路でもなかったため本当に自分の判断で独創的なやり方、手探り状態で実家をしまったという感じです。反省点は挙げればキリがありません。独りでやろうとしたこと。タイムリミットが短かったこと。計画性が無かったこと。これらは特に痛感しています。どれも自分で自分を追い込んでいくことになります。心身共に疲弊してしまいます。もし無理をしすぎて事故でも起こしていたら実家じまいどころではありません。あの頃、状況が状況だっただけにどうしようもなかったのですが業者に依頼したりすることも今の時代選択肢です。独りで背負ってしまい追い込まれるよりも、時を急ぐのであればお金は掛かりますがそうすることも時には必要かと思います。それほどエネルギ―の要ることなのです。
もうひとつ、今回のことで痛切に感じていたことがあります。それは私がゴミとして処分したものは母にとってはゴミではなかったという事。もっと言えば、母にとってだけでなく、(一部の物を省き)誰にとってもゴミではないものが殆どだったのかもしれません。ただ実家をしまう私の未来には必要ではなかったものというだけです。これは様々な側面から言えば本当に問題も多く含む考えさせられることです。ただ今回は『実家じまい』をすることが目的でしたので敢えて問題視や後悔はしないでおきたかったこともあります。また、この実家じまいの様子を母は殆ど知らずに旅立ちました。知ったらきっと悲しんだでしょうし私を憎いと思ったかもしれません。実際、実家じまいをすると決断する前に何度か母を連れて実家へ行き、二人で片づけをしていると必ずというほど喧嘩になってしまいました。何一つ処分してほしくない母と少しでも処分して前に進みたい私は悲しいほどに対立しました。母に『親不孝者!』と泣かれたことは堪らない思い出です。そんな実家じまいはただの家の片付けではありません。先ほども書いたように非常にエネルギーの必要な行動です。色んな感情、想いがあって、色んな問題が浮き彫りになって、色んな状況に出くわすこと、そして心身ともに疲弊したりもします。自分自身のことだけでも精一杯なのに自分以外の人のことも背負うというのはそれほど大変なことなのです。しかしながらそれも人によっては自分の人生の一部であり、理屈ではなくそのようなことが人生の中で避けては通れないことでもあるかもしれません。ならば少しでも自分の人生にとって意味のある、貴重な体験にしてほしいというのが願いです。
私にとって『実家じまい』はその後の自分の人生にも影響を与えるような大きな出来事となりました。今、実家じまいでご苦労されている方もおられるかと思いますし、心を痛めておられる方もおられるかと思います。また、上手くスムーズに実家じまいが出来た方、前向きに進めることが出来た方もおられるでしょう。きっと色んなケースがあることでしょう。ひとつ言えることは、人は生きている限り時間の経過がありいつかは人生の幕を閉じる時が来ます。その流れの中で私とあなたが、親と子が、夫と妻が、誰かと誰かが…重ねた時間を大切にし、またいずれ離れていくとき手放していく。時間も、モノも、思い出も、全て気持ちよく手放しても良いのです。それは無下にすることではなく『感謝して手放す』という事だと思うのです。実家じまいも『感謝して手放す』という事を心において取り組んで頂ければと思います。それは決して後ろ向きなことではありません。様々な問題が露呈するかもしれません、様々な感情に襲われるかもしれません。しかし、『感謝して手放す』ことを貫いてください。その先には必ず前向きな答えが出ると信じてください。
私はあの時無理をしてでも自分を奮い立たせて実家をしまえたことは本当に良かったと思っています。あの時、諦めなくて本当に良かったと心から思えます。もう遠くの実家、それも空き家の心配をすることはありません。物置から蛇が出るような何があるかわからない恐怖も湧いてきません。あの時の台所に置いてあった瓶詰めの得体のしれない『〇〇漬け』のような濁った感情はもうありません。今なら沢山の情報があります。様々なやり方を選択できる時代でもあります。もしかしたら手伝ってくれる仲間を募ることもできるかもしれません。費用は掛かりますが依頼できる業者も簡単に探せるいい時代になりました。時代は流れていきます。私たちに残された時間は無限ではありません。私の子供たちに当時の私のような思いをさせないよう、今度は自分自身も身の回りの物を少しずつ手放していけたらと思っています。とても長く拙い文章をここまで読んで頂きましてありがとうございます。実家じまいのことをどこかに残しておきたかったこと、そして必要な誰かの心に届けばいいなと思いながら書きました。実家を仕舞うかたが前向きな気持ちで取り組んでいけますようにと心から思っていますし一助になれば幸いです。
2024年5月
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